市川房枝
ページID 1069111 更新日 2025年12月27日 印刷
市川房枝(1893~1981)
生誕地の風土と市川家
市川房枝は明治26年(1893)に愛知県中島郡明地村(現・一宮市明地)に生まれました。
市川房枝の生家の前は、東海道・中山道に通じる美濃路が通り、萩原橋を渡れば萩原宿でした。さらに、西中野・養老方面に続く多良街道や明治時代になって創設された竹鼻・大垣方面に続く加賀野井新道の交差する場でした。
市川家は村でも裕福な家でしたが、房枝が生まれた時には財産は減り、農業と養蚕を営む一般的な農家となっていました。中島郡は江戸時代から縞木綿の産地でした。房枝の母たつは、幼少期から機を織り、柄づくりの名人と言われ、房枝は母が織った手織の着物を着ていました。房枝は母について、「一瞬も手を休めることなく何かをしていた」と回想しています。父の藤九郎は酒や煙草もせず、普段は優しかったものの、癇癪持ちで、時に母に暴力を振るうこともありました。「女に生まれた因果」と、暴力に耐える母の姿が自分の活動の原点でした。
癇癪持ちだった藤九郎も、子どもに対しては教育熱心でした。藤九郎は女性にも学問が必要という考えを持ち、房枝の進学にも反対しませんでした。兄弟にも恵まれました。兄の藤市は渡米し、幼い房枝にアメリカでの女性の活躍を聞かせました。姉のたまは高等女学校の教師をしていました。藤市とたまは、房枝の活動を経済面や精神面で支えました。このような風土と周辺環境のもとに房枝は誕生し、幼少期を過ごしました。
生涯
市川房枝は高等小学校までを現在の一宮市で過ごし、高等小学校時代の恩師岩田よねに憧れ教師の道に入ります。教師を退職した後は名古屋新聞の記者としても活躍しました。房枝の教師・記者時代の数年間は、大正デモクラシーの時期であり、様々な政治社会運動が活発でした。房枝は、多様な議論に接する中で、自身も活動の場を求め上京を決意します。
上京した房枝は、日本初の労働組合友愛会婦人部に入り、女性の労働問題に携わり、平塚らいてうとともに、新婦人協会を設立しました。大正10年から3年間渡米し、普選運動の重要性を学び帰国しました。当時、諸外国では男女とも普通選挙権が実現し、日本でも大正14年には男性への普通選挙が実現し、女性参政権実現も目前でした。途中、日中戦争・太平洋戦争により、中座しましたが、敗戦が知らされた8月15日の直後に運動を開始しました。その結果、昭和20年10月には女性参政権の付与が閣議決定、12月に衆議院選挙法が改正され、女性参政権が実現しました。
その後、参議院議員を通算5期25年務め、女性の労働環境改善、地位向上の運動に邁進し、昭和56年2月11日、87歳の生涯を終えました。その前年の昭和55年、房枝等の活動により日本は女性差別撤廃条約に署名し、それは昭和60年の男女雇用機会均等法の制定にもつながりました。
年表
| 明治26年(1893) | 生誕(5月15日) |
|---|---|
| 明治32年(1899) | 明地尋常小学校入学 |
| 明治36年(1903) | 起町他五カ町村立高等小学校入学 |
| 明治40年(1907) | 朝日尋常高等小学校卒業 |
| 明治41年(1908) |
女子学院入学(7月退学し帰郷) 萩原町立尋常小学校代用教員 |
| 明治42年(1909) | 愛知県立第二師範女子部入学 |
| 大正2年(1913) | 同校卒業 朝日尋常高等小学校訓導 |
| 大正3年(1914) | 名古屋市立第二小学校転勤 |
| 大正6年(1917) |
教員退職 名古屋新聞記者になる |
| 大正7年(1918) | 名古屋新聞社を退社して上京 |
| 大正9年(1920) | 新婦人協会発会理事に就任 |
| 大正10年(1921) | 婦人問題労働問題研究のため渡米 |
| 大正13年(1924) | 帰国 ILO東京支局職員 |
| 昭和5年(1930) | 第一回全日本婦選大会開催 |
| 昭和17年(1942) | 大日本言論報国会理事に就任 |
| 昭和20年(1945) |
敗戦 日本婦人同盟設立し会長に就任 衆議院議員選挙法改正 女性参政権実現 |
| 昭和21年(1946) |
第22回衆議院総選挙 女性候補者39名当選 |
| 昭和22年(1947) | 公職追放 |
| 昭和25年(1950) |
追放解除 日本婦人同盟(日本婦人有権者同盟)会長に復帰 |
| 昭和28年(1953) | 第三回参議院議員選挙に立候補し当選 |
| 昭和50年(1975) | 国際婦人年日本大会開催 実行委員長を務める |
| 昭和55年(1980) | 女性差別撤廃条約署名 |
| 昭和56年(1981) | 87歳で逝去(2月11日) |
| 昭和60年(1985) | 男女雇用機会均等法制定 |
市川房枝の名言
ここでは、市川房枝が残した名言をご紹介します。
それぞれの年代で、市川房枝がどのような考えを持っていたのかを知ることができます。
大正6年(1917)24歳
勝誇った希望に満ちた日は恵まれないで、来る日も来る日も悲しい思ひ、寂しい心でみたされる。恐らく私には終生満足な日は与えられないかもしれない。苦しいけれども寧ろ私にはこれが望ましい。失敗に対する修養、向上に対する努力、これさへあれば可なりだ。
※出典「名古屋新聞」大正6年12月2日 「新聞記者になりて」
大正12年(1922)30歳
できものに膏薬をはるような社会事業は好きではない。もちろん膏薬はりも必要だが、私はできものができないような社会をつくることに興味がある。
※アメリカの女性運動家アリスポールに語った言葉 出典『市川房枝自伝(戦前編)』118頁
昭和54年(1979)86歳
東京へ来てからの私は、「野中の一本杉」というあだ名をつけられましたが、まったくその通りで、私には、そばにいていろいろ提案してくれたり、手伝ってくれる人もいませんでしたし、相談にいけるところもほとんどなく、自分の思うようにやって来ました。そのために、まわり道をしたり、道草をくったり、試行錯誤したりして来ましたが、その結果が今の私をつくったと言えるのです。むしろ、まともな生活をしていたら、ふつうの女の生活に入っていたでしょう。
※「私の出発」(『愛育』1号1979)出典『野中の一本杉』(新宿書房1981)
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