聖徳寺跡
ページID 1067871 更新日 2025年9月7日 印刷
聖徳寺会見とは
戦国時代、尾張では守護代三奉行の家柄である織田信秀が勢力を拡大していました。美濃では斎藤道三が美濃守護土岐家を利用して事実上美濃の主となっていました。当初、織田家と斎藤家は敵対関係にありましたが、天文18年(1549)に和解し、道三の娘(濃姫)が信秀の嫡子、信長に輿入れして同盟関係になりました。2年後、織田信秀が病死し、信長が織田家の家督を継ぎました。聖徳寺会見とは天文22年(1553)に、冨田の聖徳寺で行われた織田信長と斎藤道三の会見です。道三が信長の才能を見抜き、「山城が子供、たわけの門前に馬を繋ぐ(いずれ自分の子供たちは信長の家来になる)」と今後の行く末を案じました。
聖徳寺は真宗の大寺院で大浦(羽島市正木町大浦)で創建された後、苅安賀(一宮市大和町苅安賀)や冨田(一宮市冨田)を転々とし、江戸時代に清須から名古屋に移転しました。信長と道三が会見した時も聖徳寺の所在をめぐっては諸説(冨田説、苅安賀説)あります。実際に、江戸時代には既に聖徳寺の痕跡は何も残っていませんでした。
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