観光案内 宮後住吉踊

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ページID 1004916  更新日 2024年3月21日 印刷 

 住吉踊は、古くは太閤秀吉のころまでさかのぼることができ、大阪住吉神社の御田植神事の奉納舞として行われたのがその起源と言われています。同社神宮寺(じんぐうじ)の僧が踊り始め、願人坊主(がんにんぼうず)と呼ばれる僧たちが天下泰平、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人々の繁栄を願って唄をうたい踊りつつ諸国を巡り歩き、広めたとされます。江戸時代の終わりごろには、十数人の一団となり、芝居の物まねやおどけ狂言を交えるように変わりました。こうして興業としての性格を強めると、各地に招かれ一世を風靡(ふうび)したと言います。
 住吉踊が尾張の地に伝わった時期は不明ですが、19世紀始めの文献に「町々へ、住吉おどり来る」との記述があります。一宮に伝わったのは明治の初めごろと言われており、かつては北神明町や葉栗連区の大毛・笹野・島村、西成連区の丹羽、今伊勢町本神戸の名栗、萩原町の二子にもありましたが、現在残っているのは今伊勢町宮後だけです。宮後住吉踊は、興業としての流れをくみ、当時の具体的な姿を知ることができる県内唯一の存在です。
 大正・昭和初期の盛期には、宮後だけでも20人~30人が宮後連中(れんじゅう)といわれる住吉踊の一座をつくって練習に励み、春秋の祭りや祝宴の際には、村々の求めに応じて踊り歩いたということです。
 現在、今伊勢町宮後地区では保存会を作り、地域をあげてこの民俗芸能の保存伝承に取り組んでいます。伝承されている手踊りは、おんど・すがわき・五十三次・豊年・江島・深川・かっぽれの7曲で、段物(狂言舞踊)としては日高川・娘道成寺(むすめどうじょうじ)・新念仏・ひね念仏の4演目があります。
 毎年8月の「いちのみや民俗芸能のつどい」、市博物館での定期公演のほか、小中学校や老人ホームなどへも公演に訪れています。

写真:宮後住吉踊の様子

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