一宮空襲
ページID 1002369 更新日 2023年9月28日 印刷
昭和19年12月以降、日本本土の大都市への激しい空襲が繰り返されるようになりました。一宮市でも同年12月の警報発令回数は、警戒警報22回、空襲警報11回に及んでおり、戦局の悪化は誰の目にも明らかになっていきました。
一宮市が本格的な空襲を受けたのは昭和20年7月のことでした。同月12日深夜から翌日未明にかけて侵入したB29約20機の編隊が、市内北部の葉栗・西成両地区と今伊勢町に油脂焼夷弾を投下しました。さらに同月28日午後10時頃には、マリアナ基地を飛び立ったB29約260機が本市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を集中したのです。全市はまたたく間に火の海と化し、うめき苦しむ声がこだまし、さながら生き地獄が瞬時にして出現したのでした。攻撃は翌午前2時まで反復され、その火は3日3晩燃え続けたのです。
2回の空襲により、り災戸数は全市戸数12,600戸の83%にあたる10,468戸、り災者は全市人口57,588名の71%にあたる41,027名を数え、内死者727名、負傷者4,187名を出し、り災面積は4.07平方キロメートルに及び市街地面積約4.96平方キロメートルの80%が灰じんに帰したのです。
主な被災建物は、一宮警察署、一宮税務署、一宮商工会議所、国鉄尾張一宮駅、真清田神社、一宮中学校、一宮高等女子学校、一宮商業学校、第1・第2・第5・赤見・瀬部の各国民学校等です。
一宮市の空襲から数えてわずか18日後の8月15日、日本はポツダム宣言の受諾により終戦を迎えました。


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