一宮空襲

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ページID 1002369  更新日 2026年7月24日 印刷 

戦時下の一宮

 戦時下の一宮は、名古屋市から人口疎開・学童疎開を受け入れる一方で、東洋紡績一宮工場が川崎航空機工場に転換し、大日本紡績(現・ユニチカ)一宮工場に名古屋市から特殊軽合金が移転するなど、軍需産業都市の側面もあり、空襲への警戒を高めていました。
 1942年(昭和17年)に始まった本土空襲は、1944年(昭和19年)の冬以降その激しさを増し、戦局は明らかに悪化していました。一宮市でも同年11月に米軍のB29編隊が飛来するようになり、12月には警戒警報22回、空襲警報11回を数えました。同月には中島郡萩原町西御堂に、翌1月には中島郡起町北今に焼夷弾が投下されるなど、散発的な爆撃が続いていました。
 こうした中で、1943年(昭和18年)以降、ガソリン不足による市営バスの廃止、中学校の休校、桃花祭の中止(神事のみに縮小)など、市民生活へも大きな影響が出ていました。

1回目の空襲

 一宮市が本格的な空襲を受けたのは1945年(昭和20年7月)のことでした。同月12日深夜から翌日未明にかけて、折からの雨をついて侵入したB29約20機の編隊が、市内北部の葉栗・西成両地区に油脂焼夷弾を投下しました。
 空襲警報も発令されない中での襲撃に慌てて逃げ出し、道路上や藪の中で焼夷弾の直撃を受け亡くなった者もいました。

2回目の空襲

 1回目の空襲からわずか2週間ほどの同月28日の午後10時頃、マリアナ基地を飛び立ったB29約260機が本市上空に侵入し、市中心部等に油脂焼夷弾の波状攻撃を行いました。市街地はまたたく間に火の海と化し、その様子は「生き地獄」とも形容されるほどすさまじいものでした。攻撃は翌午前2時まで反復され、その火は3日3晩燃え続けました。
 2回の空襲により、一宮市では全市戸数12,600戸の83%にあたる10,468戸がり災、り災者は全市人口57,588名の71%にあたる41,027名を数え、内死者727名、負傷者4,187名を出し、り災面積は4.07平方キロメートルに及び市街地面積約4.96平方キロメートルの80%が灰じんに帰しました。

白黒写真:当時の様子
宮西通方面の被害状況
大乗公園にある空襲受難記念碑。碑の表側には「祈」の文字、裏側には2回の空襲で犠牲となった方を慰霊する旨の文言が書かれている。
大乗公園にある空襲受難記念碑

 大乗公園は、2回目の空襲で特に犠牲者が多かった地区にあります。公園内の慰霊碑前では、一宮市戦災遺族会により戦災死没者慰霊法要が執り行われています。

周辺町村の被災状況

 2回の空襲では、一宮市の周辺の町村(当時)にも攻撃が及びました。
 1回目の空襲は、中島郡大和村や今伊勢町、起町、葉栗郡浅井町や木曽川町など郊外部にも及びました。
 2回目の空襲では、1回目に続き今伊勢町が攻撃を受け、2回の空襲で延べ963戸5,047名がり災しました。多くの住民が防空壕やバラックでの生活となり、衛生状態が急速に悪化し赤痢が発生するなど、苦しい生活を余儀なくされました。

終戦

 2回目の空襲から半月後、日本政府はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えることとなりました。
 市街地、郊外ともに被災するという全国でも類を見ない被害を受けた一宮市ですが、10月には早くも三八市を再開するなど、復興へと歩みを進めました。

主な被災建物

地図で見る

被災建物を地図で見る

主な被災建物一覧

 かっこ内は現在の施設名

公共施設

一宮警察署
一宮税務署

 当時は音羽通(現・音羽)にありました。

浄水場

学校

一宮中学校(県立一宮高校)
一宮高等女学校(県立一宮高校)

 現在の県立一宮商業高校の場所にありました。

一宮商業学校(県立一宮商業高校)

 現在の市立南部中学校のある場所にありました。

第一国民学校(市立宮西小学校)
第一国民学校
被災した第一国民学校
現在の宮西小学校の様子
現在の宮西小学校
第二国民学校(市立貴船小学校)
第二国民学校。2本の煙突の間にあるのは、一宮市民病院敷地内にあった旧配水塔。
被災した第二国民学校
奥に旧配水塔を望む
現在の貴船小学校。石垣は当時のままである。
現在の貴船小学校
第五国民学校(市立向山小学校)

 当時からの校門には、戦争時のものとされる傷が残されています。

第五国民学校
被災した第五国民学校
現在の向山小学校。当時から残る門柱にある傷は、機銃掃射の跡ともいわれる。
現在の向山小学校
当時と同じ門柱が残る
瀬部国民学校(市立瀬部小学校)
赤見国民学校(市立赤見小学校)
今伊勢東国民学校(市立今伊勢小学校)

工場等

川崎航空機

 戦後は染色などの繊維工場や市立中部中学校となりました。繊維工場はその後、商業施設等に転換しています。

特殊軽合金

 戦後は染色工場や一宮競輪場、市営球場となり、現在、工場や競輪場だった場所は商業施設となっています。敷地内には、戦災を乗り越えて約90年にわたり稼働した煙突が一部保存されています。

白黒写真:空襲後の様子
特殊軽合金一宮工場の被害状況
幾多の自然災害や戦災を乗り越え、明治、大正、昭和、平成にかけて活躍した煙突。高さ40メートルのうち、台座から6分の1の部分が移設保存されている。
尾州の産業遺産として残る煙突基部
日本毛織

 大部分が商業施設等に転換していますが、現在も敷地の一角で繊維工場が操業しています。

その他

一宮商工会議所

 当時は伝馬通(現・栄1丁目)にありました。戦時の資材不足の中、1943年(昭和18年)9月に木造庁舎を竣工させましたが、わずか2年足らずで焼失しました。

国鉄尾張一ノ宮駅
真清田神社
真清田神社:戦後
鳥居や宝物館などを除き、ほとんど焼失
真清田神社:現在
現在の社殿は、1957(昭和32)年に竣工

市街地で、被災を免れた主な建物

市役所(旧庁舎)
 四方を火の海に囲まれましたが、被災を免れました。壁面には機銃を掃射されたときのものとされる傷もありました。

一宮郵便局(三菱UFJ銀行一宮支店)

東海銀行一宮支店(オリナス一宮)

第三国民学校(市立神山小学校)
 当時は今より東(駅)寄りにありました。

第四国民学校(市立大志小学校)

一宮女子商業学校(修文学院)

出典・参考

建設省戦災復興誌、新編一宮市史 本文編(下)、戦災余談、今伊勢町史、起町史・下巻、浅井町史、木曽川町史、一宮商工会議所 創立100周年記念誌

終戦直後の写真(白黒)は、いずれも中央図書館所蔵のものです。

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政策課
〒491-8501 愛知県一宮市本町2丁目5番6号 一宮市役所本庁舎6階
電話:0586-28-8952
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